美の巨人たち|歌川広重「東海道五拾三次之内・京師三条大橋(きょうしさんじょうおおはし)」

あーとん

あーとんだの。今日は「美の巨人たち」の『歌川広重 東海道五拾三次之内 京師三条大橋』の回について紹介するの!

2019年3月30日(土)に放送される
「美の巨人たち」(テレビ東京)では、
名所絵の巨匠である
歌川広重の作品、
「東海道五拾三次之内 京師三条大橋」
(とうかいどうごじゅうさんつぎのうち
きょうしさんじょうおおはし)

紹介されます。

 

まずはどんな内容なのか
公式サイトで確認してみましょう!

 

2019.3.30放送
歌川広重「東海道五拾三次之内 京師 三條大橋」

名所絵の巨匠・歌川広重が描いた『東海道五拾三次』の終着地点『京師 三條大橋』広重ブルーと呼ばれるベロ藍のぼかし摺りで表現された緩やかに流れる鴨川、上に掛かる橋を人々が行き交い、長旅を終えた旅人の安堵を感じさせる穏やかな情景が広がっています。この一枚に広重は絵師として矜持をかけた仕掛けが。実は京都であって京都でなかったのです。それは一体どういうことなのか?そして広重が後にたどりついた境地とは?

出展:https://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/

引用:美の巨人たち公式サイト

 

この予告から気になるキーワードを
抽出すると・・・

  • 名所絵の巨匠が描いた『東海道五拾三次
  • 広重ブルーと呼ばれるベロ藍
  • 広重がこの絵にかけた仕掛けとは

びーさん

広重ブルーってなんか曲のタイトルみたいだよね、カタカナにすると特に。ベロ藍ってのも初めて聞いたよ

あーとん

今回は浮世絵のちょっとした歴史や道具の歴史も学習していこうかの。
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歌川広重ってどんなひと?

まずは作者の歌川広重が
どんな人物なのか見ていきましょう。

名前:歌川広重(本名:安藤重右衛門)

生年月日:1797年

死没:1858年10月12日(62才)

活動拠点:日本・江戸

表現実績:浮世絵

 

あーとん

歌川広重もまた前回の北斎に続く、日本を代表する浮世絵師だの
北斎と言えば富士山だったけど、歌川広重はどんな浮世絵を描いたんだろう?

びーさん

あーとん

歌川広重といえば、名所絵だの

「東海道五拾三次 日本橋」

「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」

「六十四州名所図会 阿波鳴門の風波」

名所絵ってことは有名な所の絵ってことでいいのかな?

びーさん

あーとん

いわゆる観光スポットや、今でいうインスタ映えのポイントみたいな場所が描かれているんだの
なるほど!梅の絵とかはインスタ映えバッチリな感じだよね

びーさん

歌川広重は1797年江戸の八代洲、
現在の東京日比谷の辺りで生まれました。

生家は火消しの同心、今でいう消防士で
13才で家を継いだそうです。

消防士さんだったんだ!かっこいい!

びーさん

あーとん

広重が担当していたのは見回りや雑用の役割である同心だから、どちらかといえば警備員よりだの

 

15才の時に当時の人気絵師・歌川豊国(とよくに)に
弟子入りを志願しますが
定員オーバーだと断られてしまいます。

 

お断りされるなんて、江戸時代の浮世絵師って人気の職業だったんだね

びーさん

あーとん

当時の浮世絵と言えば役者絵や美人画がメインだったところに、風景画を流行らせたのが豊国の師匠である歌川豊春(とよはる)を初めとした歌川派の人達なんだの
へー、どっちかっていうと浮世絵と言ったら風景画のイメージだったけど違ったんだね

びーさん

豊国に弟子入りを断られた広重は
同じく歌川派の豊広(とよひろ)の元で絵を学び
3年後の1816年に歌川広重として
デビューしました。

1832年に息子に家督を譲ると
絵に専念するようになり
翌年の1833年に広重の代表作となる
「東海道五拾三次」を発表しました。

なんか生い立ちよりも豊、豊、広、広って名前でこんがらがるよー

びーさん

あーとん

名前を受け継ぐのは伝統の一種でもあるの。ひとまず今回は初代・歌川広重のことを追っていくんだの
初代ってことは二代目も居たんだ!?ややこしいなぁ

びーさん

広重の代表作である
「東海道五拾三次」
東京~京都を結ぶ道に置かれた53の宿場町
今でいうホテルや
旅行者が集まるスポットを題材にした作品です。

葛飾北斎の「富嶽三十六景」に並ぶ
大ヒット作品で日本だけでなく
海外でも多くの人々に愛されています。

もしかして北斎みたいに真似されたりもしたの?

びーさん

あーとん

ゴッホモネといった印象派の巨匠達がこぞって模写していたんだの

「広重作 名所江戸百景 大はしあたけの夕立」

「ゴッホ作 雨の大橋」

あーとん

ほかにもこんなのもあるんだの

左「広重作 名所江戸百景 亀戸天神境内」
右上「モネ作 睡蓮の池と日本の橋」
右下「北斎作 富嶽三十六景 深川万年橋下」

おお!どれも似てるね!

びーさん

あーとん

広重が40才も年上の北斎と交流を持っていたことは記録に残っているから、北斎→広重→モネといった風に影響されていったのかもしれないの
日本から海外へ!ってやつだね

びーさん

日本のみならず世界で愛されている広重作品
特に広重が海や空の表現で使った
グラデーションがかった青色

ヨーロッパの人々から
「ヒロシゲブルー」の愛称で呼ばれるなど
したことから、当時の人気がうかがえますね。

広重が使った青色だから、ヒロシゲブルー?でもこの前見た北斎の浮世絵でも同じ様な色が使われてたと思ったけどな?

びーさん

あーとん

いい所に気がついたの。ではでは、広重ブルーについて説明していくかの
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広重ブルーとは?表現の特徴とは?

歌川広重が海や空の表現に多く使った青色
これはその当時の浮世絵界で
最新の絵の具でもありました。

最新、ってことはやっぱり高かったの?

びーさん

あーとん

ところが何と、お買い得価格なのに発色が良いからと多用された絵の具なんだの
へー、じゃぁ日本独自の絵の具だったのかな?

びーさん

あーとん

それまた驚きで、この絵の具はヨーロッパから伝わったものだったんだの。中国を通って日本に輸入されたんだの
ええ!?それなのにヒロシゲブルーなの??

びーさん

この広重ブルーの元となる絵の具は
ドイツ・ベルリンで偶然に作られたことから
ベルリンブルーがなまって
ベロ藍と呼ばれるようになったようです。

あーとん

赤色を作るための実験中に偶然青が生まれたんだの
赤から青が出来たの!?

びーさん

あーとん

しかも当時は高価だった青色が手軽に作れるとわかって絵画だけでなく陶器にも使われたりと様々なところで利用されるようになったんだの
世界で流行ってたのにヒロシゲブルー??ますます疑問!

びーさん

日本で昔から使われていた藍色
紙との相性の問題もあり
色褪せてしまうスピードが早く
試行錯誤の連続だったようです。

ところがこのベロ藍
水によく溶けて色の発色も濃く美しく
変色も少ない、まさに画期的な青であったのです。

あーとん

ちなみに日本で初めてこの色を使ったのは伊藤若冲ではないかと言われているんだの
鶏の絵の人だよね!

びーさん

あーとん

そこから葛飾北斎の富嶽三十六景、そして歌川広重の東海道五拾三次へと使われていくんだの

広重の青の美しさは他にはない
その繊細なグラデーションにあります。

例えば
「名所江戸百景 日本橋」では
川の深さを濃い青で表し絵に奥行きを

「東海道五拾三次 沼津」では
夜空と川の微妙な青の違いが
静な空気を表現しています。

どれも綺麗なグラデーションだよね!

びーさん

あーとん

この繊細なグラデーションを表現した広重だからこそ、尊敬を込めて広重ブルーと呼ばれるようになったんだの
そっか、凄く綺麗だからヒロシゲブルーなんだ

びーさん

あーとん

ちなみにヒロシゲブルーで検索すると曲の名前が出てきてしまうので検索するときは広重ブルーを使ってほしだの
本当にあるんだ!?あっ、だからあーとんはずっと広重ブルーって使ってたの?

びーさん

あーとん

さてさて、次のトピックだの
(スルーされたー!?)

びーさん

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京都 三条大橋のしかけとは?

広重ブルーの愛称で親しまれた広重ですが
その素晴らしさは繊細な色使いだけでなく
大胆な構図、つまりデザインにもあります。

一番最初に紹介した
「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」では
梅の枝のアップという
当時としては異例な構図で表現されています。

また同じく
「名所江戸百景 四谷内藤新宿」では
馬の足元から風景を覗くという
不思議な構図で作られています。

あーとん

びーさんの言うように今でいうインスタ映えだの
馬のやつは何か違うような気もするけど……

びーさん

この自由な発想力
広重最初のヒット作でもある
「東海道五十三次」に
すでに現れています。

うーん、梅とか馬みたいな変わったデザインの印象はないけどなぁ

びーさん

あーとん

一枚一枚はぱっと見た感じ特に違和感はないの。でも、
でも?

びーさん

あーとん

東海道五十三次」の最初の絵最後の絵を見比べてみるんだの
あーとん、間違い探し好きだよね

びーさん

 

「東海道五十三次 日本橋」

「東海道五十三次 三条大橋」

うーんと、アップに描かれてるのと、引きで描かれてる所?

びーさん

あーとん

良い調子だの
後は、あれ??空の色が逆?

びーさん

日本橋三条大橋の二枚を並べてみると
空の色合いや絵全体の色合いが
になっているのがわかります。

これは東海道の出発地点・日本橋が朝なのに対し
終点・京都三条大橋が夕暮れであるからです。

こころなしか人々の表情も
朝の忙しさと夕時の穏やかさが
見え隠れしていませんか。

あーとん

もちろん今みたいに東京と京都を一日で往復できたわけではないけれど、最初と最後の時間が逆に表されていることから、この「東海道五十三次」が続き物だといのがわかるんだの
なるほど、物語の最初と最後、だね!

びーさん

物語といえば、この「東海道五十三次」
実はとある人達の旅の様子
描いているとも言われています。

とある人達?

びーさん

あーとん

そう、この絵の中に必ず登場しているのが飛脚(ひきゃく)、今でいう郵便屋さんだの

この作品の題材となっている東海道
東京と京都を結ぶ大事な道。
多くの人々や物が行き交う主要道路でした。

電子機器や乗り物がなかった当時
手紙や荷物を運んでいたのが
飛脚(ひきゃく)と呼ばれる人達です。

彼らはリレー方式で手紙や荷物を運び
東京・日本橋から京都・三条大橋までを
早くて3日で行き行きしていました。

あーとん

普通なら二週間はかかる距離を3日で駆け抜ける飛脚の人達が見ている風景を描いたのが「東海道五十三次」なのかもしれないんだの

 

「東海道五十三次 平塚」

「東海道五十三次 浦原」

「東海道五十三次 四日市」

「東海道五十三次 庄野」

こうやって見ると一冊の本みたいだね!

びーさん

あーとん

飛脚の人々を通してこの浮世絵を見た人達も自分が旅をした気分になったのかもしれないの
なんだか行ってみたくなるよね!

びーさん

あーとん

ちなみに広重自身は東海道を旅したわけではないんだの
ええっ!?そうなの?

びーさん

あーとん

人に聞いたり模写だったり、想像で描いていたりしたらしいの
実際に見た訳じゃないのにこんなに色んな風景がかけるって、凄い人だったんだね!

びーさん

 

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