あーとん
2019年8月18日9:00~の日曜美術館
(NHK Eテレ再放送)では
東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)
が紹介されます。
名前は知っているという人も多いでしょう。
あーとんと一緒に、どんな人物か学習して
いきましょう。
もくじ
「日曜美術館」公式サイトの予告をチェック
まずは公式サイトの予告から
見どころを確認しましょう。
傑作といわれる作品をもとにその芸術家の魅力を熱く語り合う「傑作ダンギ」。今回は江戸の町に突如現れ、10か月で姿を消した謎の絵師・東洲斎写楽にスポットをあてる。
歌舞伎役者の似顔絵で江戸の町に旋風を巻き起こした浮世絵師 東洲斎写楽。写楽の作品から、役者の人生までも見えてくるという作家の岩下尚史さん。書家でアーティストの紫舟さんは、「もしかして写楽は女性だったのではないか…」という視点で作品にきりこむ。専門家の渡邉晃さんは、海外で「名人」と絶賛された写楽の色彩について分析。3人のゲストが語り合う中で、謎に満ちた絵師・写楽の魅力と奥深さが見えてくる。
この予告から
気になるキーワードを抜き出すと…
- 10ヵ月で姿を消した
- 歌舞伎役者の似顔絵
- 写楽の色彩
びーさん
あーとん
東洲斎写楽ってどんな人?
生誕名:不明
生年月日:不明
死没:不明
国籍:日本
著名な実績:浮世絵
活動期間:1794年 (寛政6年)- 1795年 (10ヵ月)
びーさん
あーとん
現在、145点余の東洲斎写楽の作品が、
確認されています。
わずか10ヵ月の制作期間で、当時としては
異例といえる作品の多さです。
びーさん
あーとん
作品の特徴は?
写楽作品はすべて蔦屋重三郎という
版元(出版人)から出版されました。
そのため作品には
富士に蔦と「蔦屋」の印が入っています。
写楽の活動期間は短いですが、次の4つの
作画期間に分けて考えられています。
- 第1期 寛政6年5月 大判役者大首絵
- 第2期 寛政6年7月 大判・細判役者全身像
- 第3期 寛政6年11月・閏11月 細判役者全身像・間判役者大首絵・相撲絵
- 第4期 寛政7年1月 細判役者全身像・相撲絵・追善絵・武者絵等
まずは、第1期 大判役者大首絵を
見てみましょう。
第1期 大判役者大首絵
歌舞伎が庶民の娯楽とされていた時代、
人気の役者の顔をクローズアップした
「大首絵」は大人気でした。
今でいうブロマイドの役目をしていました。
「大判」とは作品のサイズのことで、
たて約39センチ、よこ約26センチです。
びーさん
あーとん
びーさん
三代目大谷鬼次の江戸兵衛 (大英博物館 蔵)
びーさん
あーとん
歌川豊国
三代目大谷鬼次の江戸兵衛
びーさん
あーとん
市川蝦蔵(えびぞう)の竹村定之進
(慶応義塾 蔵)
びーさん
あーとん
第1期での背景は、
黒雲母摺(くろきらずり)で統一されています。
「雲母」とは、
文字通りキラキラした、
「うんも」とも呼ばれる鉱物です。
現在でも絵具として使われています。
写楽は、雲母に墨を混ぜて「黒雲母」
として使っていました。
芝居小屋のほの暗い明かりを感じさせ、
役者が浮かび上がるように見せています。
びーさん
あーとん
写楽の作画期間中、最も評価が高い作品は
この第1期に作成されています。
第2期 大判・細判役者全身像
篠塚浦右衛門の都座口上図
(しのづかうらえもんの
みやこざこうじょうず)
(東京国立博物館 蔵)
第2期のスタートとなる作品です。
第1期とは異なり、役者の全身像を
描いています。
巻紙にうすく透けて見える文字は、
「口上自是二番目新板似顔奉入御覧候」
(口上これより二番目新板似顔ごらんいれ
たてまつりそうろう)と読めます。
あーとん
びーさん
第2期での大判には二人、
細判(たて約33センチよこ約15センチ)
には、一人の全身像を描きます。
三代目市川高麗蔵(こまぞう)の
亀屋忠兵衛と中山富三郎の
新町のけいせい梅川
(東京国立博物館 蔵)
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あーとん
第3期 細判役者全身像・間判役者大首絵・相撲絵
大童山土俵入
(MOA美術館 蔵)
江戸での話題だった少年力士、
大童三文五郎を描いています。
7歳で体重70キロだったそうです。
この作品は大判を三枚、組み合わせて
います。
びーさん
あーとん
第4期 細判役者全身像・相撲絵・追善絵・武者絵等
江戸砂子慶曾我(えどすなごきちれいそが)
(東京国立博物館 蔵)
第四期では、
連続した背景の細判のみが描かれました。
残っている作品数が10点と少ないのは、
写楽人気が薄れたためでしょうか。
この後、写楽は忽然と姿を消します。
びーさん
あーとん
びーさん
10ヵ月で消えた?!理由は?
「あらぬさま」「わるくせ」という写楽に
対する二つの評価があります。
『浮世絵類考』という書物に「あまり真を
画かんとて、あらぬさまにかきなせしかば
長く世に行われず」とあります。
これは「(役者の顔を)あまりに真実に描こう
として、望まれないように描き,画壇を退く
はめになった」ということです。
また、同時代の絵師喜多川歌麿が自らの
役者絵に「わるくせを似せたる似つら絵
にはあらず」と記しています。
これは「(役者の)見た目の欠点を強調して
似せたものは肖像画とは言えない」という
ことで、暗に写楽の描法を「あくへき」と
酷評していたようです。
役者絵は役者の個性を描き分けるという
大前提はあったものの、美化や理想化
するのが一般的だったようです。
役者の「あらぬさま」「わるくせ」を
描き出す写楽の作風は同時代の絵師たち
には邪道と見られ、歌舞伎役者の間では写楽
の絵は不評だったようです。
びーさん
あーとん
びーさん
正体は阿波藩士・斎藤十郎兵衛?
びーさん
写楽について様々な研究がされてきましたが、
現在では阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの
人物とする説が有力となっています。
能役者斎藤十郎兵衛
(さいとう じゅうろべえ)
宝暦13年〈1763年〉 – 文政3年〈1820年〉
これは天保年間(1830~44年)に
発行された「増補浮世絵類考」の
写楽 俗称は斎藤十郎兵衛。八丁堀に住む。阿波の能役者。号は東洲斎
という記事が根拠になっています。
実際、能役者名簿にも
斎藤十郎兵衛の名はあり、
八丁堀に住んでいたことも確認されています。
また、埼玉県越谷にある寺の過去帳に
十郎兵衛の名があり、
実在が証明されています。
びーさん
あーとん
斎藤十郎兵衛は、
彼は江戸藩邸勤めのため
八丁堀地蔵橋(現在の中央区日本橋茅場町)
に住んでおり
大名お抱えの能役者の勤めは
当番と非番が半年か1年交替のため、
その非番期間を利用して絵を描くことが
可能だったと言われています。
あーとん
びーさん
びーさん
びーさん
あーとん
ところで、
なぜ「写楽」という作家名にした
のでしょうか。
彼の作品に役者の絵が多いため、
「楽屋を写す」
の略という説と洒落れ(しゃれ)ているという
言葉から来たものだという説もあります。
作家名の由来も何から何まで謎の多い写楽。
これから、どんな新しい事実が分かってくる
のか楽しみですね!